2017年04月 滞在していた熊本から日帰りで軍艦島(長崎県)へ行ってきました。
軍艦島 上陸見学
世界遺産「軍艦島」 を第1見学広場から上陸見学をしました。
30号棟アパート
第3見学広場に到着しました。
第3見学広場の正面にあるのは、30号棟アパートで、1916年(大正5年)に建設された日本最古の7階建てRC造の高層アパートです。
ロの字形で中は吹き抜けになっています。建築学上、軍艦島で一番貴重な建物だそうです。
このような鉱員用のアパートが立ち並び、狭い島内に1960年(昭和35年)には約5,300人が住んでいました。当時の人口密度はなんと世界一で、東京人口密度の9倍以上とも言われています。
海沿いの31号棟アパート
軍艦島は常に高波の被害を受けており、高波は護岸堤防を軽く越え、この海沿いに建つ31号棟アパートへ当たる高さで襲いかかります。当時、高波の被害で海側の共用廊下の窓ガラスはいつも割れた状態だったそうです。
この少し曲がった形をした6階建ての建物は住居でありながら、高波から炭鉱を守る第2の護岸堤防の役割を果たしていました。
第3見学広場でガイドさんの説明を聞いたあとは自由見学となりました。集合時間までに船に戻ります。
仕上げ工場
第3見学広場の隣(写真左側)には機器のメンテナンスを行っていた仕上げ工場でした。
海水(荒波)と強風のために風化が激しいようで、横に大穴があいています。
プール
30号、31号アパートの間をまっすぐ抜けた島の一番端にあります。
アパートの間の道は夏にはプールへ向かう道として島民に利用されていたそうです。
幼児用プールと25mプールとが併設されていました。中に少しだけ白線が残っているのが見えます。
肥前端島灯台
高台に建つ白い灯台は肥前端島灯台で、隣の四角い箱は貯水タンクです。
軍艦島は24時間稼働していたため、島から明かりが消えることがなく、当時灯台は必要ありませんでした。
閉山後、夜間の明かりが必要となり、閉山の翌年(1975年)に建設され、1998年に強化プラスチック製の現在のものに建て替えられました。
総合事務所
鉱山の中枢であり、この島の司令塔の役割を果たしていたレンガ造りの建物でした。
ここには共同浴場もあり、多くの炭坑関係者が行き来した場所でした。
現在、総合事務所の前は第2見学広場となっています。第1、第3より少し狭い見学広場です。
第2見学広場
第二竪坑坑口桟橋
右端にある四角い建物は炭坑への入口です。
ここから約600m、スカイツリーの高さをエレベーターで一気に降り、作業現場へ向かいました。
坑道はさらにそこから横へ1kmも続いていました。
作業現場の気温は30℃、湿度は95%。厳しい作業環境、常に危険のある命がけの作業を行っていました。
1日の作業後は奥さんでも見分けがつかないほど真っ黒になったそうです。
レンガ造りの総合事務所内には一日の汚れと疲れを落とすための共同浴場がありました。
入浴後はここから30秒で着くような我が家へ帰るのにも白シャツに着替え、気持ちも切り替えてから帰宅していたそうです。
第1見学広場まで戻ってきました。
第1見学広場
ベルトコンベアの入口と出口
採掘した石から石炭は1/3しかとれず、ほとんどはボタ(捨て石)として捨てていました。
軍艦島ではボタを島の埋め立てに使い、当初の約3倍とも言われる現在の大きさになりました。
島の埋め立てが終わると、その後はボタ(捨て石)を海に捨てました。
最初は桟橋側に捨てていましたが、いっぱいになってしまったため、ベルトコンベアを使い、マンションの中を通し島の反対側へ捨て始めました。その痕跡が第1見学広場前にあります。
桟橋側のベルトコンベアの入口
ボタ(捨て石)を島の反対側に捨てるためのベルトコンベアの入り口の跡。
現在は封鎖されています。
島の反対側 海側のベルトコンベア出口
ボタ(捨て石)を捨てるベルトコンベアの出口の跡。
31号棟アパート内を通り抜けて海へ捨てていました。第3見学広場からは見えない場所でした。
たくさん見て、たくさん写真を撮り、あっという間の見学時間でした。船へ戻ります。
ドルフィン桟橋
「ドルフィン」とは船を係留させるために海底に柱杭を打ち込んで造る柱状の施設です。
軍艦島のドルフィン桟橋は2度の台風で流されました。
この桟橋は1962年(昭和37年)に3代目として建設され、1974年(昭和49年)の閉山まで利用されていました。現在のドルフィン桟橋は見学用に少し改造してあるそうです。
名残惜しいものの、早めに乗船して、少しでも快適な席を確保しようと思います。
軍艦島上陸見学を終え、長崎港へ戻ります。
ドルフィン桟橋
コメント